小説の基本中の基本、長さについて
長さとタイトルに書きましたが、正確には枚数のことです。四百字詰め原稿用紙で、長編は何枚からか、短編は何枚までか、ということです。
その考察を僕なりにしてみたいと思います。
こういうことは出版社が一番厳格です。そして出版社の多くが毎年小説を募集していますから、その募集要項を見れば一目瞭然です。
長編、短編、その規定の枚数が、必ず明記されています。ただし、その枚数は、出版社によってまちまちです。つまり、考察の余地があるわけです。
ある長編の募集では、250枚以上とあり、また別の募集では400枚以上とあり、かの有名な江戸川乱歩賞は350枚以上となっています。どうも厳密な数値はないようです。
話によると、長編はその作品一本で本ができる枚数だと言います。ならば200枚でも本にならないことはないでしょうが、しかし、200枚を長編と言うのは、ちょっと無理がありますね。やはり250枚以上はあった方がいいでしょう。
もっとも、僕の考えでは、小説は長ければいいというものではありません。内容が充実したものが一番です。──料理で言えば、本当に美味しい料理は少しの量で満足できます。しかし、あまり美味しくない料理は量で勝負するしかありません。だから中身がすっからかんなものが多いのです。実際、面白くない小説に限って長ったらしく、しかも千枚を超えると、それを力作と自慢し、あるいは評価されます。忍耐力のない僕は閉口するばかりなのです。まったく退屈な長編ほど害になるものはありません。
なので、250枚という数字は、長編としては、最少の枚数ですが、僕はこれくらいの長さがちょうどいいと思います。
因みに芥川賞などを扱っている某サイトによりますと、長編を300枚以上、短編を150枚以下と限定しています。中編は300枚以下150枚以上となりますが、僕もこの数値が一番適切ではないかと思います。
さらに詳しく分けるとしたら、原稿用紙40枚以下を短めの短編、40枚以上100枚までが普通の短編。そして100枚以上150枚以下が、ちょっと長めの短編ということになります。
これでいくと、先ほどの250枚は中編ということになりますが、まあ細かいことは言わないことにしましょう。本になればいいだけのことです。
長編短編の枚数は、以上でOKだと思いますが、では掌編、ショートショート及び超短編はどうなのだ、というご意見があるかと思います。で、次に簡単に僕の見解を述べます。
掌編とショートショートは、ほとんど同じ長さだと僕は思います。400字詰め原稿用紙で、15枚以内。──20枚程度でもいいのですが、しかし20枚だと立派な短編になります。では15枚以下は立派ではないのか、と言われれば、あくまでも枚数の問題であって、傑作に枚数は関係ありません。
ショートショートは、その響きから、ちょっとSFっぽく感じますが、それは星新一というショートショートに特化した作家の作風に影響されているからでしょう。一世を風靡しました。星新一については、また別の機会で記述したいと思います。特筆すべき作家の一人ですから。
そして掌編ですが、掌編は何となく文学っぽいイメージが僕にはあります。たとえば、梶井基次郎の「檸檬」をショートショートと言う人はあまりいません。言っても間違いではないですが、やはり掌編と言った方がピンときます。小品でもいいですが。
掌にのるほどの小さな作品、なかなか日本語って、素敵ですね。
問題は超短編です。いったいいつ頃からそう言われるようになったのか僕は知りませんが、面白い呼び方だと思います。短編を超えるという意味なのでしょうが、といって長編ではありません。逆にすごく短い短編で、原稿用紙一枚か二枚で終わる作品のことです。ですから、俳句のようなものも超短編と言っていいでしょう。手軽に誰でも書けて、スマホで読むには好都合なジャンルと言えましょう。
今回は以上となります。
あやつり裁判 読書感想
今回は最近読んだ、といっても新しい本ではありません。1998年発行のあやつり裁判という本です。有名な鮎川哲也によるアンソロジーです。その読書感想をしたいと思います。
表紙
幻の探偵コレクションということで、うつろな視線の女性の上半身が描かれています。いかにも昭和のカストリ雑誌を連想させます。収録されている作品は11篇で、大正から昭和二十九年にかけてのミステリーです。アンソロジーですから、一篇一篇作風も全く違いますが、読み応えがあります。粒ぞろいといっていいでしょう。その中でも、とくに僕が気に入った作品をご紹介しましょう。
蜘蛛 米田三星
作者の米田三星は、大変寡作な作家です。生涯に短編が四つしかないそうです。しかし、どれもクオリティが高く、よくアンソロジーに選ばれます。有名なのは、生きている皮膚、告げ口心臓といったところでしょうか。この蜘蛛という作品も、良品です。ただ、タイトルの蜘蛛が、どの場面に出てくるのかと期待していたら、最後の方に唐突に出て、あれっ、という感じはいたしました。
鼻 吉野賛十
これは秀作。あらすじを言うとネタがばれますから言いませんが、盲人の感覚について克明に描かれていて、そのせいか作品に深みがあります。
月下の亡霊 西尾正
鎌倉か、その辺の海沿いの話です。とある家が売りに出されていて、その家を購入したいという者に、家の番人が亡霊が出るという話をするのです。この亡霊はバイオリンを奏でます。一種の復讐劇です。ただ、ミステリーとして読んだ場合、ちょっとがっかりするかもしれません。 しかし、亡霊の主が海で死ぬ間際に言った言葉は、秀逸です。
海底の墓場 埴輪史郎
これは力作。ある雑誌の入選作のようですが、それだけのことはあります。難癖をつけるとすれば、潜水艦ごときに、それほどまでして秘密にしなければならない機能が隠されているのかと、ちょっと疑問には思います。が、それを言ったらミステリーは成立しませんよね。
あやつり裁判 大阪圭吉
表題作は、さすがにすごい発想という他ありません。こんなことが実際に法廷で起きれば、被告人はたまったものじゃないです。作者の大阪圭吉は大変才能のある作家です。この作家については、また改めて書きたいと思います。特筆すべき作家ですから。
ふしぎ文学館 鮎川・芦辺篇
妖異百物語 第一夜14編から
人喰い蝦蟇 辰巳隆司
解説に、このアンソロジーの超目玉とありましたが、なるほど興味深い作品でした。内容は、ある学者が蛙を食用として流通させ易くするために蛙の体を大きくしようと研究するのですが、しかしこれはカモフラージュで本当の目的は違います。タイトルでお察しがつくとおり、蛙の巨大化は成功します。が、とんでもない結末となります。これも復讐劇です。なかなかよく作られたストーリーです。
僕はこれを読んで、すぐに新羽精之の傑作「進化論の問題」を思い出しましたが、内容は全然違います。
奇術師 土岐到
最後のオチが素晴らしいです。しかし、こんなマジックが実際にあれば、ドン引きしますね。
忘れるのが恐い 和田宜久
主人公は、直前のことを忘れる病気です。たしかにそういう病気が実際にあったように思います。で、メモをするのですが、そのメモも忘れてしまいます。ショートショートとしては、申し分のない出来です。説得力があります。
今回はこの辺で。
明日は明日の本がある
明日読む本があるというのは、明日食べる米があるのと同じくらい幸せなことでございます。
僕はフエフキガエルというペンネームで、キンドル及び投稿サイト・パブーにおいて小説を発表しております。覆面作家でございます。
この度は、心機一転して、ブログを始めることを決意いたしました。決意、そんな大仰なものではありませんが、とにかく僕は本が好きですから、本に関することをいろいろ書いていくつもりでごさいます。おそらく読書感想文が主な記事になるでしょう。
では早速、僕の大好きな稲垣足穂の作品から出発することにいたします。
弥勒は稲垣足穂のちょっと長めの短編小説ですが、そこら辺の長編よりもずっと重みのある内容です。ただ難解な小説で、僕は何度か読んでいるのですが、それでもよく分からないところがございます。しかし面白さにかけてはピカ一です。保証します。もっとも、恋愛小説が好きな方には足穂の作品はあまり好まれないかもしれません。──男性のロマン。僕は足穂の作品に、それを感じます。夢があるのです。
弥勒は第一部と第二部に分かれています。順番通り第一部から書いていきましょう。
第一部 真鍮の砲弾
舞台
兵庫県の神戸辺りが舞台となっています。足穂は同県の明石で育ちましたが、生まれたのは大阪の船場というところです。
主人公
第一部第二部ともに江美留です。カタカナで書くとエミル、おしゃれで女性的なイメージを持ちますが、じつは稲垣足穂自身のことなのです。というのも、この小説は稲垣足穂の自伝的小説だからです。飛行家を目指しているという点で一致します。因みに、江美留という名前は、ある女性が、足穂を見て「あの人はエミールさんという感じね」と指摘したことに由来します。
時代
大正十年の秋と小説にあります。稲垣足穂は西暦1900年の12月生まれですから、二十歳頃のことです。
この大正十年は、ポン彗星とかいう珍妙な彗星が地球に接近していた頃で、そのことを新聞が書き立てていました。足穂はそれに触発され、赤色彗星倶楽部という話を作り上げたのですが、しかし、残念ながら最後の方がうまくまとまらず、代わりにもっと最適なものはないかと考えた末、取り換えたのが、この「弥勒」でした。もちろんきっかけになるものがありました。それは当時、足穂が毎日のように出入りしていた夫妻の家で見た弥勒像の写真でした。──蓮台に腰かけて片手を頬に寄せているあの有名な弥勒像です。この像はコギトという同人誌の表紙にもなったことがあります。足穂はその弥勒像を見て、この小説のヒントを得たのです。
ここで僕は、足穂はひょっとすると「弥勒」のあの見事な結末を最初に頭に思い浮かべたのではないかと思ったのです。僕も小説を書いていますが、結末が先にあって、そこから物語を構築することは普通にありますから。では、なぜ僕がそう思ったのかと言えば、小説の中に、彼(江美留)は物事の終わりが好き、というくだりがあるからです。
第一部は、ストーリーというストーリーはなく、江美留(足穂)の趣味と、モダンな神戸においてどのような生活をしていたかが書かれています。──ハヴァナ煙草を吸ったり、ブルーバード映画を観にいったりと、いわゆるハイカラな暮らしですが、それによって第二部の悲惨な生活が、より際立つことになりました。
第一部は、あくまでも第二部への助走に過ぎません。第二部も、大して事件は起きないのですが、しかしこれがまた面白いのです。
第一部で僕が気に入ったフレーズ
──六月の夜の都会の空──
なんとも爽やかで、いかにも足穂的な感じがしますが、しかしこのフレーズは、足穂が考えたものではありません。足穂の級友が教室の黒板にさらっと書いて消したものです。足穂は、よほどこのフレーズが気に入ったらしく、のちの小説「美のはかなさ」に再び使用しています。
第二部 墓畔の館
舞台
今度は東京です。
時代
太平洋戦争前の昭和です。太平洋戦争は1941年に始まりますが、足穂は1900年生まれなので足穂が三十代の頃となります。古き良き時代であったかどうかは分かりませんが、のどかな時代ではあったでしょう。公害もなく、晴れた夜は東京も満天の星空になったはずです。
江美留は上京し、タイトル通り墓のそばの館の二階の一室に一人で住みます。
館と言いましたが、これはちょっと説明が必要です。この直前まで江美留は東京の横寺町にある青甍のアパートに住んでいました。が、家賃滞納のためそこを出て、なんとその青甍アパートの横の小路の突き当りにある、古い、巨きな空箱のような建物に移り住んだのです。私立幼稚園と東京高等数学塾を併せ持つ建物で、江美留のいる二階六畳のすぐ下が墓地となっていました。と、わざわざ説明をしたのは、部屋のすぐ下が墓地、ということが、この小説のキモになっているからです。
この館の部屋で、江美留は極貧生活を送ります。収入がないわけですから、着の身着のまま、タバコは道に落ちている吸殻を拾い、ついでにちびた鉛筆なども拾い、その鉛筆で原稿用紙の裏に小説を書きました。なぜ裏なのか、それは人が書き損じた原稿用紙を足穂は貰って書いていたからです。
足穂は断食をよくしましたが、もちろん自分の意志でしていたわけではありません。食べ物も金もなく仕方なしです。ただ断食でいい点が一つありました。それはアル中だった足穂の頭がクリアになることでした。
質屋通いもよくしていたのですが、やがて質に預ける物もなくなり、しまいには布団さえ無くなりました。それが二月のことです。暖房器具のまったくない状態で、江美留は震えながらただひたすら時を過ごします。──言っては悪いですが、稲垣足穂の貧乏話ほど面白いものはありません。そういうことが克明に描かれています。
当然ながら江美留は新聞というものをとってはいません。が、たまに読む機会がありました。飛行家を目指していた江美留のことですから、飛行機関係に興味があったと思うでしょう。もちろんそれも興味があったと思いますが、じつは江美留の一番の興味は自殺記事でした。
江美留は海峡の町(明石でしょうか)で、ある人からこう言われました。「あなたが自殺などすれば、わたしはあなたを俗物だと思って軽蔑するだけだ。乞食をしても構わない。生きていた方がよいと思います」普段は江美留に対して冷淡にしていた人の言葉でした。
江美留は、その通りだと肯定します。──「自殺者は意欲を断ちかねて現象のみを殺すもの。生きようとする意志を置いて、現実の生存のみを破棄するもの」──つまり、生存を欲しながらも生存意志の特殊的現象である自己に絶望して、それのみを棄てようとするのが一般の場合だ、とショーペンハウエルは彼に教えた、とあります。何のことか、僕にはさっぱり分かりません。この後も説明があるのですが、やはり僕には理解できませんでした。しかし江美留は、この苦境においても「夕べに死すとも可なり」と前向きな姿勢でいるのです。さすがです。
弥勒の第二部は、身辺無一物による困窮と悲哀がテーマとなっていますが、その実、江美留は夜空の星には人一倍関心があり、またちょっとしたことに美を見つけていました。たとえば、部屋の窓ガラスに無数の気泡が入り、その中の一つが、スペクトラムの作用をする泡で、視線の角度を変えるたびに赤色や青緑色さらにヴァイオレットなどの美しい色彩を放っ、といったようなところです。これを読んで僕はすぐに、足穂が自ら描いた「月の散文詩」という絵画の小品を思い出しました。
稲垣足穂は、その顔写真を見る限り、只者ではないと僕は直観するのですが、とても感性が豊かな人だったのでしょう。そのくせ、落ちているタバコの吸い殻を拾って吸うのですから、まったくもって不思議な人です。そういったことも含めて、僕の敬愛する作家の一人です。
第二部で僕が面白いと思ったフレーズ
──つまり底まで沈み切ってしまったのだから、身じろぎはその分だけの浮揚を意味することになる。──
これはなかなか言えません。体得した人のみが言える言葉です。
結論
「弥勒」は紛れもなく稲垣足穂の代表作であり、何度でも読み返すことのできる稀有な傑作です。この度、改めて読み返してみて、僕はそう思います。