創作ホラー 目無し地蔵

目無し地蔵

 

 私の子供の頃、近所に源さんという話の好きなおじさんがいて、子供たちによく昔話を聞かせていました。

「むかしむかしのことじゃった」これが源さんの決まり文句でしたが、しかし、源さんの言う昔というのは、平安時代鎌倉時代といった本当の大昔ではなくて、源さんの子供の頃のことがほとんどでした。

 そのとき源さんは、いつになく神妙な顔をして、

「わしはこれまでこの話は誰にもしなかったのじゃが、それはわしの長い人生の中で、心の傷としてずっと残っていたからじゃ。まあわしぐらいの齢になれば誰でもそういうものが一つや二つあるものでな、そしてそういうものは、なかなか人に言えないものじゃ。しかし、あれからもう何十年もたっている。犯罪というほどではないが、時効はとっくに切れている。あの子もきっと忘れているにちがいないのじゃ。だからわしは、罪滅ぼしのつもりでみんなに語ろうと思う」

そう言って、源さんは次のような話をぼくたちにしました。

「わしの故郷は前にも言ったが、県北のど田舎で、家の近くに小山がある。その山の頂上に小さな神社があって、わしは子供のころ、よくその境内に上がったものじゃが、それはその境内からの眺めが素晴らしく、憂鬱なときも、いっぺんに心が晴れたからじゃ。

 

 ある晴れた日、わしは一人で境内に上がって遊んでおったのじゃが、この神社の社は小さいが、境内はけっこう広く、隅のほうに柿の大木もあり、おりしも秋の暮れ、いや冬になっていたかもしれんが、柿の実がたわわに実っていた。そのほとんどがずくずくの熟柿となっておったのじゃ。

 そのときわしは、しゃがんで地面に絵を描いていた。何の絵を描いていたかは覚えておらんが、木の枝で一心不乱に絵を描いていると、ふと目の前に誰かがいる気配がしたのじゃ。顔を上げて前を見ると、そこに小さな子供が立っておった。見たこともない子供で、時代劇に出るような膝小僧が見える短い木綿の着物を着ておったが、足は裸足じゃった。

真ん丸い顔で、いかにも子供らしい愛くるしい顔立ちをしているのじゃが、残念なことに目が無いのじゃ。目があるところが少しくぼんで黒ずんでいた。そのためわしは、最初子供が目をつぶっているのではないかと思ったのじゃ。しかし、やがて目そのものが無いことに気づいたわしが、どんなに驚き、かつ怖かったか、みんなも想像がつくやろ。わしは一目散に境内から逃げたのじゃ。そのときわしは、普段は使わない小径を下ったのじゃが、というのも、その小径は角度が急でなかつ途中に崖があり、用心しないと麓に真っ逆さまに落ちてしまう恐れがあったからじゃ。しかしそのときは、そんなことを気にしている場合ではない。一刻も早く境内から離れたい気持ちが強く、その急な小径を選んだのじゃ。そして途中の崖で、わしはあるものを見たのじゃが、それは小さな地蔵様じゃ。高さは三十センチほどで、子供の顔をしておったが、なんと、その地蔵様には目が無いのじゃ。まるでさっきの子供のような感じじゃった。──わしは今までこの地蔵様の存在に気づかなかったが、それは、めったに通らない小径であったことと、崖の上という恐怖心で、その小さな地蔵様まで注意が届かなかったからじゃ。今回、恐怖心が分散しておったから、思わぬところが見えたのじゃろう。

 さて、家に戻ったわしは、さっそく母にそのことを話した。目の無い子供ではないぞ、目無し地蔵のことじゃ。すると母は、次のような話をしてくれた。むかし、この辺のどこかの家に目の無い子供が生まれたのじゃ。その頃は、どこも貧しくて、障害を持った子供は口減らしのために生まれた時点で始末をするのが普通じゃった。が、その母は高齢で初めての子であったことで隠れて育てることにしたのじゃ。隠れて育てるというのは、つまり家から一歩も外に出さないということじゃ。しかしそんなことができるはずもなく、何年かすると世間にばれてしまった。そうなると、近所の子供たちの恰好の標的にされて、やじられ、家に小石を投げられる日々が続いたのじゃ。生涯この苦しみが続くことを母は憂い、幼い子供と一緒に旅立つことを決意したのも無理もないことじゃった。旅立つというのは、あの世へ行くことじゃ。そして母は、ある月の出た夜、子供を抱いてあの崖から飛び降りたのじゃ。それを知った村人たちは、その親子を気の毒に思い、また村の子供たちが、目の無い子供の夢をよく見るようになり、これは何か不吉な前兆にちがいないと、みんなで話し合い、供養の意味で、あの崖の上に目の無い地蔵さんを祀ったのじゃ。

 わしはこの話を聞いて、境内に現れた子供は、その目の無い子供の霊にちがいない。そして、わしの前に現れた理由は、このわしと一緒に遊びたかったからじゃ、と結論をつけた。なぜなら、あの子は誰とも遊んだことがなかったはずじゃ。このわしも近くに遊び相手がいない環境じゃったから、あの子の気持ちがよく分かるのじゃ。そうなると、わしは急にあの子が不憫になり、もう一度会いたいと思うようになったのじゃ。

 で、次の休みの日、わしは勇気を出して、あの境内へ行ったのじゃよ。

 この前と同じように地面に絵を描いておった。すると、やがて生暖かい風がすうっと吹いてきた。異変を感じたわしは、顔を上げて前を見ると、そこにあの子が立っておったのじゃ。

わしはもう驚かなかった。逃げもしなかった。

落ち着いて、わしはこう言ったのじゃ。

「お前はおいらの前ばかり現れるが、それはおいらと遊びたいからか」

すると子供は、こくりとうなずいた。

「ようし、じゃあおいらと鬼ごっこをしよう」

 わしは、なぜそのようなことを言ったのか今も後悔するのじゃが、神社の境内で遊ぶとなると、鬼ごっこぐらいしか思いつかなかったのじゃ。

 子供は、やはりこくりとうなずいた。

 でわしは、「じゃあ、お前が鬼だぞ、ここで数を百かぞえたらおいらを探しに来い。おいらはこの境内のどこかに隠れているから」

そう言って、すぐに隠れるところを探したのじゃ。社の縁の下に隠れるのは簡単だが、定番過ぎて面白くない。それよりもどこか高いところから、子供の様子を見学するほうがわしは面白いと思った。いわゆる高みの見物じゃ。それでわしは境内の隅にある柿の大木によじのぼることにしたのじゃ。わしは二メートルほどの高さの枝に跨って、そうして、子供の動きを観察したのじゃ。子供は数をかぞえ終えて、わしを探し始めたところじゃった。両手をこう前に伸ばして、小走りで前進するのじゃが、それがまるでおもちゃのような動きで、わしは思わず声を出して笑うところじゃった。心の中でげらげら笑ったのじゃ。とくに子供がわしのいる真下を通ったときには、もう手で口をおさえたほどじゃ。以降、子供は境内をあっちこっち探し回るのじゃが、どうも永遠にわしを見つけることはできそうになかった。ところが、何度目かにわしのいる真下を通ったときに、子供は急に立ち止まったのじゃ。わしはドキッとした。空気が一瞬凍り付いたように感じた。と、子供は、ゆっくりとわしのほうを見上げて、にやりと笑ったのじゃ。それはまるでわしのいる場所など、最初から知っておったと言わんばかりなのじゃ。それでわしはついカッとなって、思わずそばにあった熟柿を引きちぎると、子供の顔めがけて投げつけたのじゃ。運悪く熟柿は子供の顔に命中した。ぶよぶよの熟柿じゃったからケガはしなかったと思うが、柿の汁で子供の顔はべちょべちょになってしもうたのじゃ。すると子供は、わんわん泣き始めた。

「この恨みは晴らそうぞ、晴らそうぞ」

甲高い声でそう叫ぶと、向こうのほうへ姿を消したのじゃ。

 わしは後悔した。こんなことをするつもりは、さらさらなかったのじゃ。わしはあの子を楽しまそうと思っていただけなのじゃ。あの一瞬だけ、わしの心に悪魔が舞い降りたとしか思えん。あの子がわしのほうを見上げなければ、そしてにやりと笑わなければ、わしは木から降りて、別の遊びをするつもりでいたのじゃ。

 その日以来、わしはその境内に上がることができなかった。あの子が言った、この恨みは晴らそうぞ、という言葉が、わしの頭に残って、怖かったからじゃ。あの子は普通の子ではないから、どんな仕返しをしてくるのか、想像もつかなかったのじゃ。

 しかしもうあの子も忘れておるやろ。わしも齢やから、死ぬまでにもう一度あの境内に上がってみたいと最近思うようになってな。もしもあの子がわしのところにやってきたら、わしは素直にあのときのことを謝るつもりじゃ」

 源さんの話をぼくは兄にしました。すると兄は、それは面白い、今度の休みの日に、俺の車に源さんとお前を乗せて、その神社へ行こう、と言うのでした。車を持っていない源さんはその提案を承諾しました。じつに十年ぶりの里帰りだと言います。

 冬の初め、こんもりとした山の頂上の境内に、ぼくたちは上がりました。

境内の隅に源さんの言った柿の木があり、季節柄、柿の実がたわわに実っていました。熟れすぎて地面にもたくさん落ちていました。

 源さんは、柿の木の真下に立ち、「この木じゃ、これがわしの話した柿の木じゃ」と言って、上のほうを指さしました。

「わしはあの枝のところで」

顔を上げたときのことでした。

「あのときの恨みを受けるがいい」

 甲高い声がして、つぎの瞬間、源さんの顔が熟柿によって、べちょべちょになったのです。

 見ると、木の枝に一人の子供が立っていました。丸い顔をした目の無い子供です。

 源さんは、手で顔をぬぐいながら、「これでいいのや」と言って、再び木を見上げましたが、たちまち子供は、満足そうな笑顔で、すうっと消えていきました。

 源さんも、このときじつに幸せそうな表情をしたのでした。

壁本と害本

壁本と害本

 

 ミステリーの感想文などを読むと壁本という言葉がよく出てきますが、この壁本という言葉の意味は、二通りあって、ひとつは単純に壁に本を飾ること、そしてもう一つは読んであまりのくだらなさに思わず壁に叩きつけたくなるような本のこと、つまりがっかり本のことです。

ミステリーの場合は、もちろんがっかり本のことですが、じつは世にあるミステリーの多くが、残念ながらこのがっかり本であるのです。

 今回は、ミステリーを読んで、なぜがっかりするのか、その理由を解説したいと思います。

もちろんそれは期待を裏切られたからに他なりません。では、読者はいったい何をミステリーに期待するのでしょうか? 

僕の場合ですと、わくわく感ですね。世の中、わくわくすることは、そうありませんから、せめてミステリーぐらいわくわくさせてほしいと。それがミステリーを読む動機であり期待なわけです。野球で言えば、大谷翔平選手のホームランを期待するようなものです。

コナン・ドイルのシャーロックホームズの冒険を読んで、僕はわくわくしましたが、あのときのわくわく感が忘れられません。至福のひと時でした。

しかしそんな本は、百に一つもないのです。

全般的に、ミステリーは難解で複雑な内容が多く、だからこそミステリーなわけですが、くそつまらん本が多いのも事実です。そんな中でホームズものの短編は、どれも分りやすく、スカッとした解決で心地よかったです。それはドイルという天才作家が抜群の構成力を持っていたからでしょう。もちろんアイデアも素晴らしいのですが、理路整然としたストーリーに僕はしびれました。特に冒険の中の短編は、どれもはずれがなく傑作選と言っていいでしょう。

この一冊だけ読んでいれば、もう他に読む必要もないのではないかと僕などは思います。

自分ではミステリーが好きで、いろいろ書いているのですが、他人の書いたミステリーはあまり読みたくない。というか、読みたい本がないのです。

もちろん有名な作品はある程度読みました。しかし、心からわくわくした作品は数えるほどしかありません。

アガサ・クリスティーエラリー・クイーンも面白くない。

クイーンは代表作と言われる「Yの悲劇」を若い頃読んで、死ぬほど退屈した覚えがあり、以来クイーンの作品は読まないことにしています。

同じくクリスティーも、特にあの有名な「アクロイド殺人事件」は、さっぱりでした。

事件という事件も起きず、どこが面白いのか僕には理解できませんでした。

しかしこの作品は、ミステリーの人気ランキングでは、常に上位に入ります。

僕の読み方が悪かったのか、再度読めば違った感想になる可能性もありますが、読む気はないですね。

では、それらの本は壁本かと言われたら、それは違う、と明言します。面白くはないが(僕にとっては)、しかし、それなりにちゃんとしたものであったとは思います。

──へへへ、実は内容もよく分からなかったのです。だから面白くなかったのです。この点も、コナン・ドイルとの差がありますね。ドイルはすごい。

結論から言うと、わくわくしないものが壁本ということではなく、トリックなどの種明かしが、あまりにも理不尽な場合に、壁本ということになります。つまり常識的に考えて、そんなことはありえないと。

例えば、あるヒーローが、十メートルの深さの穴に閉じ込められた、さて、そのヒーローはどうやってそこから脱出したか、の場合、超人的な跳躍力で脱出した、と書けば、誰でも壁本にしたくなるでしょう。そういうことです。

壁本の最たるものが害本ということになりますが、しかし、壁本がすべて害本になるわけではなく、たとえ種明かしや結末が不十分な場合でも、それまでに読者をひきつけるものがあれば、一応エンターテインメントの小説としては合格と言っていいでしょう。

となると最初から最後まで退屈なもので、なおかつくだらない本が害本と言うことになります。

それが長編小説ともなると最悪ですね。完読するのに長時間かかりますから。

読書は最高の趣味のひとつですが、映画を見るのとは違い、労苦を伴います。

勝ち負けで言うと語弊があるかもしれませんが、エンターテインメントの小説は読者を楽しませて、なんぼのものです。読者を退屈させたら作家の負けです。いやしくもプロの作家であれば。

世の中、ミステリー本は毎年山ほど発行されています。書評などを参考にしますが、本当に面白いのかは、実際に読んでみないと分からないことです

お金が有り余っている方はいいですが、僕のように限られたお小遣いで高い新刊本のミステリーを買うときは、神に祈る気持ちになります。そうして運悪く退屈な本であった場合は、それこそ、【金返せ】と心の中で叫んだりします。

そこで僕は、もしその本が、お気に入りの作家でなければ、図書館で借りて読むことにしています。 

もっとも、この場合、人気のある本はなかなか順番がまわってきませんし、手垢やその他で本が汚れていることも多いのですが、しかし、少なくとも【金返せ】という最悪の状態にはならなくてすみます。

ということで、今回は壁本と害本について、僕なりの見解を述べてみました。以上です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創作(幻想怪奇小説・短編)銀杏のはなし

+銀杏のはなし

 

 今から十年ほど前、私は二十代で休日はよく一人旅をした。たいてい一泊して帰るのだが、その一泊というのも、じつはテントを張った野宿であった。

 お金がないというのもあるが、私は昔から野宿というものに憧れを持っていた。その土地に直接腰を下ろす、という行為が私の場合は普通の旅では味わえない特別な感覚であったのだ。

 ただ私の場合、キャンプ場は利用しないことにしている。キャンプ場は、テントを張るのが目的の施設だから、当たり前過ぎて面白味がないのだ。

 ではどこでテントを張るのかと言えば、主に神社仏閣の境内である。もちろん人が住んでいるところは避けるし、また寺は、たいてい近くに墓場があったりするので、そういうところも敬遠する。誰もいない神社の境内こそ、私の求める理想的な一夜の宿であった。

 ただ、神社の境内は神聖であるから、ここで煮炊きをすることはない。単純に寝泊りするだけの場所である。

 だから夕飯は行く途中にある食料品店で弁当やパンを買うことになるが、これによって、ご当地にいくらかの貢献をした気分になれるのが私という人間であった。

 また私は、境内で野宿をするにあたって一つのルールを設けていた。それは立ち去るときは、その痕跡を一切残さない、ということだ。ゴミなどはもってのほか、テントを安定させるためのペグも使用しない。

 では風の強い夜はどうするのかと言えば、テントを張らず寝袋だけで過ごす。軒下や縁の下を利用すれば雨が降っても安心だし、神様に対してそう失礼にはならないだろう。

 とある十月の晴れた日、私は大きなリュックサックを背負って電車に乗った。リュックの中には必要最低限、テントや寝袋が入っているが、目的地はとくに決めていなかった。

 田舎のちっぽけな神社、なおかつ私の心にびびっと来る、条件はただそれだけだ。地図よりも私はいつも電車の窓からめぼしい物件を探すのだが、そうして、心に叶った場所を発見すると、次の駅で降りる。そのため電車はいつも鈍行であった。

 

 車窓からの眺めは素晴らしく、広々とした田園に稲穂が西日を受けて黄金色に輝いていた。

 早く場所を決めなければならない時間帯で、日が完全に暮れれば、最悪の場合は駅で泊まることになるが、それだけはなんとしても避けたかった。

 目を凝らして左右の景色を交互に見かわすうちに、ふと私の目にとまったものがあるが、それはこんもりとした小さな丘であった。丘の上に神社のような建物があったが、それよりも私の目を奪ったのは、そのすぐそばにある巨大な樹木であった。建物が神社であれば御神木の可能性があるが、何の木かは判然としなかった。というのも、その木は寒々とした枝のみの姿であったからで、この時期、落葉は早すぎるし、すでに枯木である可能性もあるが、それにしては天に伸びている枝がまるで人間の腕のように左右に動いていた。風かな? と私は田園の稲穂を見たが、稲穂はほとんど揺れていないのだ。あそこだけ強い風が吹いているのか? いずれにしても今夜の寝床を早く見つけたかった私には、それがここにおいでよ、と私を誘っているように見えたのだ。

 で私は次の駅で降りる準備をし、電車のドアが開くと同時にプラットホームに跳び下りた。

 木造の古い駅舎の外は小さな商店街となっていたが、私は迷うことなくあの丘に向かった。もちろん丘に着くまでに、どこかで食料を買わなければならないのだが、幸いなことに商店街の外れに、看板の傾いた貧相な食料品店が一軒あった。

 私はここで今夜の夕飯を買うことにした。立派なスーパーよりも私はこういう寂れた店で賞味期限が切れかかった商品を買うことを心掛けていたが、それは地元の神社に今晩お世話になりますよ、という一種の謝罪でもあった。

 私は売れ残った助六寿司と菓子パン各種、そして飲料水を買った。

 レジには五十代の男性がいたが、どうやらこの店の主人のようであった。

主人は私を見て笑顔で、

「お客さん、まるで登山にでも行くような恰好をしていますが、この時分、どちらへ?」と聞いてきた。

 夕暮れが近く、そして大きなリュックサックを背負って食料品を買えば、誰でも不思議に思うものだ。私はごまかす必要はないと思って、

「ここから一キロほど先に小高い丘があって、そこに大きな木が一本立っていましたが、今夜はその大きな木の下でテントを張って一晩過ごそうと思っています」と答えた。

 一瞬にして、主人の顔がこわばった。

「何ですって、あそこで一晩過ごすおつもりですか」

 呆れたように言うので、私はてっきり、やはりあそこは神社の境内で、神聖な場所であるからキャンプなどはもってのほかと言いたいのだろうと思った。だが、そうではなかった。

「お客さん、それだけはおやめなさい。あの大きな木は、たしかにこの地域の自慢の一つで、県の名木にも指定されていますよ。ですから、私もこんなことは言いたくないのですが、あの木、いやあの場所にはちょっと禍々しい噂があるのです。とくに今夜は満月です。詳しいことは私もよく知りませんから、これ以上のことは言えませんが、とにかくあそこへ行くのはおよしなさい」

 私は返事をしなかった。今から場所を変更するには遅すぎるし、またこういうことはたいてい何でもないことが多いものだ。

 私は黙って店の外に出ると、あの丘に向かった。

 すると、後ろから主人が「お客さん、ちょっとでも変なことがあったら、すぐに逃げなさいよ」と、わざわざ店の外に出て、そう叫ぶのだった。

 私は振り返り、帽子をとってお辞儀をした。

 

 丘の上の建物は、やはり神社だった。登り口にある石の鳥居でそれと分かった。

 古色蒼然とした小さな社だが、賽銭箱の横にちょうどいい感じでベンチがあったので、私はここで夕飯をとることに決めた。

 さて、肝心の大木であるが、近くで見るとよりいっそう大きく見えた。高さは二十メートルを優に超えるだろう。近くで見ても、やはり葉っぱは一枚もついてない。しかし、木肌と枝ぶりから銀杏の木のようであった。

 今の季節ならまだ青い葉っぱ、いや少なくとも黄色い葉っぱがたくさん枝についているはずなのだが、それがまったくないということは、この木はすでに枯れた、あるいは枯れる寸前にあるのだろう、と私は推測した。ならば先ほど見た、太い枝がゆらゆら揺れていたのは、何だったのだろう、まるで若木のように揺れていたのだ。

 という疑念はあるものの、私は予定通り、この銀杏の大木の下にテントを張った。テントは一人用の雨が防げる程度のものだが、今夜は晴天になる空模様であった。

 私はあの店の主人によって、今夜が満月であることが分かったのだが、満月に照らされた銀杏の大木はさぞかし見応えがあるだろう、と私は木を見上げた。

そうこうするうちに、辺りがだんだんと薄暗くなってきた。で、私はベンチに腰を下ろしてリュックから食料を取り出して、それらをベンチに並べたりしていると、誰かが近づく気配がした。見ると、地元の人なのか、かなり痩せた老人が私の前に現れて、そして私にこう言った。

「あなたは今夜ここで一泊するつもりですかな?」

 またか、と私は思った。

「ええ、そうですが、何か?」

 しかしこの男性は、それ以上何も言わずに去って行った。

 おかしな人だなあ、注意するなら注意すればいいものを、なぜ中途半端に去って行ったのか、かえって気になるではないか。もっとも、ここから立ち去るように言われないだけましではあったが。

 私は気にせず、買った食料を腹いっぱい食べた。

 ところで私は食後に眠くなるたちで、また満月は深夜にならないと出ない模様だった。それで私はそれまでテントの中で一眠りすることにした。一眠りのつもりで、朝までぐっすり眠りこけることになるかもしれないが、それはそれで幸せな睡眠であったと言えるだろう。

 夜更け、私はある物音で目が覚めたが、それは何者かがテントの屋根をぼんぼん叩く音であった。最初、それは人間の仕業かと思ったが、それにしては足音がまったくしないのだ。犬や猫とも違っていた。また小鳥がテントにぶつかっているような感じもしないでもないが、鳥は夜の闇を苦手としているし、そのような無意味なことをする理由も見つからなかった。ただ今夜は満月で外は多少明るくなっているはずだから、小鳥が浮かれて、そんなことをしている可能性もある。が、それより私は銀杏の木の枝が、風に揺れてテントに触れているような気がした。たしかにそれが一番近い音だった。しかし、そんな強風が吹いていれば、このチンケなテントが無事でいられるわけもないのだ。

 私はそれを確かめるために外に出ることにした。正直言って外に出るのは怖かった。しかし、何かあった場合、テントの中では逃げようがないのだ。

 腕時計を見ると午前一時半を過ぎていた。けっこう眠ったものだ。月もすでに中天にかかっているだろう。

 私はテントの外に出た。

案の定、外は満月の光で新聞の字も読めるくらいであった。

 しかし無風である。鳥もいない。枝も静かで、先ほどの騒ぎはいったい何だったのだろう。私はキツネにつままれたような気分で、とりあえず社の前のベンチに腰を下ろして、しばらく様子を見ることにした。

 銀杏の交錯した枝が、月光によって地面に投影していたが、やがて私は漠然と近くの枝がさっきよりも自分に近づいているように感じた。イカの触手のような太い枝で、私に気づかれないようにごくゆっくりと近づいているように感じたのだ。

 やがて、それは地面に映る影によって確信に変わった。というのは、私は銀杏の木より西にいて、月は西に移動する、つまり銀杏の影は東に後退しなければならないはずなのだが、その枝の影はもう私のすぐ前まで来ていたからだ。私は驚いて立ち上がった。──枝先が目の前にあり、私はあっと叫んで、逃げようとした瞬間、その枝が電光石火の早業で私の体をぐるぐる巻きにした。そうして私を空中高く持ち上げた。枯れたように見えた銀杏の木のどこにこんなパアーがあったのかと私は驚嘆した。そして私は、ハハーン、あの店の主人が強く私に忠告した理由はこれだったのかと理解した。しかし今さらどうすることもできない。私の体は地上から二十メートルほどの高さにあり束縛されているのだ。これから先、私はどうなるのか、あまりのことに想像もつかなかった。

 それにしても、いったいこの銀杏は何者なのだ。あまりに齢をとりすぎて化け物に変化したのか。たしかに銀杏の木は他の樹木にはない不思議なところがあると私は昔から思っていた。たとえば銀杏はこの地球上でもっとも古い植物であり、しかも動物のように雌雄が分かれている。

 ある人は、動物になりそこなった植物、とか、宇宙からやってきた異星人ではないか、とか、面白おかしく言ったりするのだが、こうしてみると、あながち否定することもできないと私は感じた。もし私がSF作家なら、銀杏の木はテレパシーで仲間と連絡を取り合い、昼夜、虎視眈々と地球征服を狙っている、というような小説を書いたかもしれない。

 ところで、こんな目にあいながら私は不思議と恐怖を感じなかったのは、真下がよく見えなかったことと、月光に照らされた田園風景があまりにも美しかったことで感動していたからだ。遠くに見える町の灯りも美しい。

 やがて、貨物列車が猛スピードで田園の中を駆け抜けて行くと、それに触発されたかのように銀杏の木が行動を開始した。

 私の体をきつく巻いていた枝が、ゆっくりと高度を下げて、地上から数十センチのところでピタッと止まった。

私の前方には銀杏の太い幹がある。その幹がにわかに変化したかと思うと、目と口ができた。鼻があったかどうか覚えていないが、その大きな口と血走った目で、鬼のような形相をして私を睨むのだった。

 このとき私は初めて恐怖を感じたが、すると、私に巻きついていた枝が、するすると、その口に向かって進んだ。間違いなく私を食べるつもりなのだ。あの口に入ったら、もう二度と外に出てくることはないだろう、と思うと私は無性に腹が立った。銀杏の分際で人間を食べるとは生意気な。

 私は口に入る直前に、その唇を無茶苦茶に蹴とばしてやった。それが功をなしたのか、銀杏はきょとんとした顔をして、しばらくじっとしていた。やがてその口から臭い息を私に吹きつけてきた。また目をぎょろぎょろさせて、私を凝視したが、一向に私を飲み込む気配がなかった。

 やがて銀杏は再び私を空中高く持ち上げて、今度は私をぶんぶん振り回し始めた。最初はゆっくりだったが、だんだんと速くなった。

 私は振り落とされないように必死に枝にしがみつく必要があり、純粋に怖かった。

と、銀杏は、またしても私を幹元の口へ運んだが、しかし、今度もまたその直前でピタッと止まった。銀杏は私を飲み込もうと大きな口を開けていたので、なぜやめたのか私は不思議に思ったが、たぶん私が喚いて足をばたつかせたせいなのだろう。

 銀杏は困ったような顔をした。そして怒った顔をしたり、臭い息を吹きつけてきたりしたが、それはもちろん私を脅かすためである。しかし、私にはそれがむしろ滑稽にしか見えなかった。それで私はこう悟ったのだ。銀杏は私が恐怖心を抱いているときにしか、私を飲み込むことができないのだと。その理由は、私には分からない。が、おそらく自分に対して恐怖心を持った者しかうまく消化できないのではないだろうか。たとえば蛇が生きたハリネズミを飲み込むことができないのと同じように。

 それで私は三度、空中高く持ち上げられ、振り回されるはめになったのだが、しかしそれはジェットコースターのような恐怖であって、地上近くに降ろされれば、その恐怖心はたちまち消滅したのだ。

 銀杏は明らかに焦っていた。かなり疲れたようだった。最初から枯れたような木だったから、体力がないのだ。そもそも私を喰おうという魂胆は、延命行為に違いないのだが、今回さらにその寿命を縮めたことになる。

 そのうち東の空が白みかけ、一番鶏がどこかで鳴いた。

 すると、鬼のような形相だった銀杏の顔がすうっと消えて、あれほどきつく私を巻いていた枝が、へなへなと地面に横たわった。気がつくと私は地面に足をつけていた。

 私はほっと息をついた。

 このとき後ろの方で声がして、振り向くと、昨日のやせた老人であった。老人はなぜか泣いていた。そして言った。

「私はあなたに謝らなければなりません」

「謝るって、何をですか?」

「私は知っていたのです。あなたがこういう目にあうことを。知っていながら、あなたに忠告できなかったことです。大変罪深いことです。幸いあなたは無事ですみましたが、もしも最悪の場合は、私は殺人者の片棒を担いだことになります」

「ちょっと待ってください。相手は銀杏の木ですよ。あなたには何の罪もありませんから。私に謝る必要などまったくないですよ」

「そう言ってくださると、心が軽くなりますが、私は昔からこの木の悪行を知っていたのです。この銀杏の木は、もう百年ほど前から枯れかかっては復活を繰り返しています。復活するときは、きまって誰かがこの境内で行方不明になっています。それも満月の夜の前後二日間にです。昨日私はあなたがリュックサックを背負ってこの境内に上がるのを見て、内心、わくわくしたのです。これでまたこの木は復活するのではないかと。人間として、なんと恥ずかしいことでしょうか。それほどまでに私はこの銀杏の木に執着していたのです。というのも、私はこの近くで生まれ育ち、この木には、いろいろ思い出があるのです。それにこれほど大きな銀杏の木は、めったにありませんから、地元の自慢の一つにもなっています。それでなんとか復活させてやりたいと、あなたには悪いと思いながらそのことを黙っていたのです。しかし私は、たった今決心しました。じつは私は病気でそう長くないのです。人生の最後に、この村とこの木のために為になることをしたいと思います」

 そう言うと老人は、静かに去って行った。

 おかしな老人だなあ、と私は改めて思った。しかし、老人が言った言葉が、私は気になった。

 境内が明るくなってから、私はリュックサックを背負い駅に向かった。途中、昨日の食料品店の前で主人と出くわした。

 主人は私を見ると、笑顔になって「無事でしたか。心配して今見に行こうかと思っていたところですよ」と言った。

 この誠実な主人は、私に何か変わったことはなかったかと聞いた。私は別に何もなかったと、うそをついた。実際に起きたことを言うのも面倒だったし、正直に答えれば、だから言ったでしょう、と言われるのがオチだからだ。しかし今後のことを考えれば、正直に話した方が良かったのかもしれない。ただあの老人のことは少し話した。昨日の夕方と今日未明に境内にやってきたことだ。

「そうですか。あの人もあの銀杏の木が心配で心配で仕方ないんですよ。じつは何年も前から、地元の役場はあの銀杏の木を伐採する計画を立てています。しかし、あの人一人が猛反対していて、それで枯死寸前になった今もあそこに立っているというわけです。まあ今度という今度は、さすがにあの銀杏の木も最後になるでしょう。枯れたあとはただちに伐採することになります。惜しいと言えば惜しいですが、なにぶん噂が噂だけに、まあ自力で復活すれば、またしばらくはこの地のシンボルツリーとして役立つわけですが」

 主人はのんきなことを言っている。私はあの木があのまま枯れることを願いながら主人と別れた。

 

 家に帰ったあとも、私はあの老人の言葉が頭について離れなかった。勤務中もそのことで、仕事に集中できない有様だった。

 で、私は再びあの丘へ行くことにした。銀杏の木がどうなっているか見届けるためだ。

 

 銀杏の木を前にしたとき、私は愕然とした。一週間前、あれほど弱り切っていた銀杏の木が、この季節にはありえないほどの若葉を茂らせていたからだ。

 おそらく今夜ここにテントを張って一晩過ごしても、もう何も起きないだろう。しかし長居は必要ないのだ。私は速やかにその場を離れた。そして駅に向かったが、例の食料品店の前は通らなかった。

    了

読書感想(ありふれた祈り・クルーガー)エドガー賞

 今回は、アメリカのミステリー小説(ありふれた祈り)についての読書感想です。批評ではありません。単なるぼくの感想です。

 まず、この本の基礎知識ですが、2014年、早川書房発行・宇佐川晶子翻訳で、作者はウイリアム・ケント・クルーガーというセントポール在住の作家です。

 2013年に発表したこの本によって、アメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)を受賞しました。それだけでなくバリー賞、マカヴィティ賞、アンソニー賞と立て続けに獲得しました。

 つまり多くの批評家や作家が、これは傑作だと認めたわけです。ならば、ミステリーを書いているぼくが読まないわけにはいかないでしょう。で、読んでみた感想は、それだけのことはある、です。

 ただけっこう長い小説で、退屈な部分もありました。が、これはたいていの長編小説がそうなので仕方ありません。とくにぼくは根気がなくて、長編を最後まで読まないことも多いのですが、しかし、この本は最後まで読みました。読ませるものがございました。その読ませるものが何か。それをちょっと書いてみようと思います。

 

 あらすじは、説明するうえで書く必要があるのですが、ぼくのような文才のない人間には、かなり難しい内容です。で、簡単に記すとアメリカのミネソタ州の田舎町で、連続して人が死ぬのですが、殺人と断定できるのは三番目の事件だけです。誰が殺されたのかは言えません。これを言うと犯人は誰か、を答えるのと同じくらい読者の興味は半減するでしょう。

 しかしこの作品は、誰が犯人か、というような薄っぺらいものではありません、言い換えれば、それだけのものであれば、とてもこれだけの賞を獲得することはなかったでしょう。話自体は、わりと平凡なものだからです。

 

 登場人物の一人一人が、じつに鮮やかに描かれていました。構成も無理がありません。

 純文学と言っても通用するようなキメの細かい作品です。

 またミステリー要素も豊富で、終末の謎解きも納得のいくものでした。

 牧師の家族がメーンとなっていることで、さらに作品に深みを加えているようです。

 とくに感心したのは、節ごとの終わり方で、とてもお上手です。

 

 クルーガーという作家の小説を、ぼくは初めて読んだのですが、かなり力量のある作家だと思います。実際、デビュー作の『凍りつく心臓』という作品で、いきなり、アンソニー賞とバリー賞を獲得しています。

 

 因みにエドガー賞は、アメリカのエドガー・アラン・ポーという天才作家を記念して作られたもので、推理作家の垂涎の的となっています。

 日本には、江戸川乱歩賞というのがございますが、これは公募であって、エドガー賞のような賞はとくにありません。会員でなくてもいいという点で言えば直木賞でしょうか。

 

 今回は、以上となります。

群鶏色の街

意味のない詩人

 

群鶏色の街

 

群鶏色とは、どんな色だと聞かないでください。僕も知らないのです。これはぼくの単なる造語です。群青色というのがあって、そこから思い付いただけのものです。

ただイメージはあります。鶏がたくさん群れていれば、さぞかしにぎやかで陽気だろうという。

こういう雰囲気の街が実際にあるだろうか。

にぎやかな街なら、いたるところにあるかもしれませんが、陽気な街となるとあまりないように思います。

殺伐とした都会では話になりません。

で、詩はどこにあるのだ、と聞かないでください。

群鶏色の街──というのが詩です。

一行詩です。俳句よりも短い世界最短の詩ということになります。

もちろん、これだけでは、なんですから、群鶏色の街をイメージしたイラストを次にのせます。

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群鶏色の街

 

読書感想 『帝王』 フォーサイス・作

 最近、『帝王』というタイトルの短編集を読みました。フレデリック・フォーサイスというイギリスの作家です。

 ぼくはこの作家の本を今まで一度も読んだことがありません。代表作の「ジャッカルの日」は映画にもなりましたが、ぼくはその映画も見ていません。

 「帝王」は、短編集で、そしてぼくは短編が好きなので、面白そうなものを二つ三つ読んでみようとこの文庫本を手にしました。

 わざわざ二つ三つと断りを入れたのは、ぼくは傑作短編集でも、全部を読むことはめったになく、その理由は単に根気がないからです。

 で、今回は二つだけ。

 表題作の「帝王」と「アイルランドに蛇はいない」です。

 どちらもタイトルに惹かれました。とくに蛇の方は、素晴らしいタイトルだと感心し、ネットで調べてみると、たしかにアイルランドには蛇がいないようです。

 アイルランドはイギリスのすぐ横にある島国です。

 緯度的にいって、けっこう寒いのでしょう。しかし蛇のいない理由は、寒さではなく、アイルランドは、かつて一度も蛇のいる陸とつながったことがないからです。海底火山の活動によって隆起した島なのです。

 

 ウイキペディアによりますと、 作家のフォーサイスは、イギリスのケント州出身で、ちょっと変わった経歴があります。19歳のときにイギリス空軍に入り、それからロイター通信社の特派員となりました。作家になってからは、007でお馴染みのイギリスの秘密情報部に協力して、スパイ活動も行ったようです。

 

 「アイルランドに蛇はいない」

 

 まずタイトルが秀逸。内容もなかなかのもので、最初から最後まで、隙のまったくない密度の濃い作品でした。

 

 あらすじは、医学生(インド人)がアイルランドの大学で医学を勉強するのですが、生活費を稼ぐためにアルバイトを始めます。建物の解体作業です。その最初の現場が、アイリッシュウイスキーの蒸留工場でした。解体作業は屋根瓦から順々に下っていくのですが、医学生は、ここで危険な作業を現場監督から言いつけられます。三階の壁を適当な大きさに割って外側に蹴れと言うのです。命綱もなく、へたをすれば壁と一緒に落ちてしまいます。その危険性を彼は監督に伝えました。

 現場監督は、最初から肌の色の違うこの医学生を小ばかにしていましたが、指摘されたことで腹を立て、彼に向かって口汚くののしりました。いわゆる差別用語を使ったのです。

 医学生は、由緒ある家柄の出身で、今までそんなことを言われたことがありませんでしたから、心が傷つきました。で彼は興奮し、自分がいかに高貴な生まれかを現場監督に説明したのです。

 しかしそのことが、かえって大男の現場監督を激怒させることになり、医学生はぶん殴られ、吹っ飛び、床に倒れました。それを見ていた他の者は、起きるな、起きたらビッグ・ビリーに殴り殺されると忠告します。

 医学生は屈辱の中、どうすることもできませんでした。

 現場監督が立ち去るとき、医学生はふと頭に勇敢だったご先祖たちの姿が浮かびました。

 ご先祖たちは、彼に向かって一様に「復讐」という言葉を投げかけましたが、これは屈辱を受けたら、その仕返しをする、というのが彼らの掟だったからです。

 医学生が、現場監督に対し復讐を誓ったことは言うまでもありません。 

 

 医学生は自分の部屋に郷土の女神シャクティを祀る祭壇を設け、復讐に対する祈りを捧げます。祈りをしている間、なぜか外は雷雨となり、部屋の壁にかけていたガウンの紐が下に落ちて蛇がとぐろを巻いたような形になりました。それを見て彼は、これは復讐に蛇を使へ、と女神が教唆したと、とらえました。

 インドにはコブラをはじめたくさんの毒蛇がいます。彼はその中で最も小さな毒蛇を復讐の手段にすることを決めました。たしかにキングコブラのような大きなものは、取り扱いが難しいうえに、かえって自分が危険になります。

 で彼はいったんインドに帰り、小さな毒蛇を持って再びアイルランドに戻って来ます。

 ここから、ストーリーは一転二転します。医学生の立場で考えると、いらいらしますが、結末が、とても粋な感じで、思わず、うふふとなります。

 オチの素晴らしい、見事な構成でした。

 

 「帝王」

 

 表題作の「帝王」とは、海の魚であるマカジキのことです。というか、マカジキの中でもとりわけ大きな一匹で、周辺の漁師たちが敬意を表して付けたニックネームでした。

 

 物語は、ロンドンの銀行の支店長であるマーガトロイドとその妻、そして同じ銀行の本店勤務で若手のヒギンズ、この三人がヒースロー空港モーリシャスに向かって出発するところから始まります。

 一週間の休暇ですが、これは銀行がマーガトロイドとヒギンズに対して、日頃の勤務態度及び功績を称えての報酬でした。因みに同じ銀行ですが職場が違うので、マーガトロイドとヒギンズは初対面です。

 行き先のモーリシャスは、かつてイギリスの植民地でした。マダガスカルの東方、インド洋に浮かぶ小島です。

 三人は島のホテルに到着し、ここで一週間滞在します。

 モーリシャスはのどかできれいな島です。が、その一方で退屈です。なぜなら、することが限られているからです。海で泳ぐか釣りをするか、あるいは散歩をするか、もちろんホテルで酒を飲むこともできますが、せっかく南洋の島に来たのですから、ここでしかできないことをしたいものです。

 船釣りはイギリスでもできますが、ここの船釣りは豪快です。ゲーム・フィッシングと呼ばれ、釣れるのは、シマガツオ、カジキ、マグロといった大きなものばかりです。まあシマガツオはそれほど大きくはありませんが、引きはけっこう強いようです。

 マーガトロイドとヒギンズは、あることからこのゲーム・フィッシングに参加することになりました。

 ある朝、二人は船に乗って沖に出ます。

 どちらも釣りの素人なので、最初はシマガツオしか釣れません。しかし、船頭は、そのシマガツオを餌にして、海に投げ込みますと、カジキがかかるようになりました。

 釣りは順番制でマーガトロイドがロッドを握っていたときに巨大なマカジキがかかったのですが、これが帝王と呼ばれる怪物でした。

 

 この釣りは体力勝負で、釣り人はファイテング・チェアに腰かけてやるのですが、それは体を椅子に固定しなければ、あっという間に海に放り出されてしまうからです。それほど強力なパワーを持った魚たちです。

 帝王はマカジキの怪物ですから、大苦闘したことは言うまでもありません。実際この記述が、これでもか、というくらい描かれています。

 日頃大して運動をしていない銀行員のマーガトロイドは体中傷だらけになります。リールを巻いたり緩めたりする駆け引きで、長時間、帝王が弱るのをじっと待ちます。

 結果は書きませんが、最後は以外な結末になります。いえ、定石と言っていいかもしれません。たしかにすんなり帝王を釣り上げて、めでたしめでたし、では、つまりませんから。

 それにしても銀行員って、つらい稼業なのですねえ。

 

 今回はこのへんで失礼いたします。

 

ポオ(黄金虫) 読書感想

今回はポオの「黄金虫」について書きます。この作品はあまりにも有名ですから、わざわざ僕が説明する必要もないのですが、大好きな作品ですから。

かなり昔にわくわくしながら読んだ記憶があります。しかし、内容はすっかり忘れていましたので、今回改めて読み返しました。(集英社文庫のE・A・ポー 丸谷才一訳)やはり面白かったです。本当に面白い小説は天才しか書けないと痛感いたしました。

 

まず話の舞台となっているのが、南カロナイナ州のサリヴァン島です。長さは三マイル。幅は四分の一マイル。矮林で湿地帯です。

 

登場人物は、  

ぼく ─ レグランドの友人

ウィリアム・レグランド ─ サリヴァン島に住む由緒ある家系の男性。

ジュピター ─ 黒人でレグランドの使用人

 ほぼこの三名のみのシンプルな人物構成です。

 

あらすじ

 

主人公のぼくはレグランドに会いにサリヴァン島へ行きます。アポなしの訪問です。レグラントは留守でしたが夕方になって帰宅します。

その日、レグラントは一匹の珍しい黄金虫を見つけ、それを捕まえるために時間を費やしました。

そしてレグラントは、帰宅途中、捕まえたお気に入りの黄金虫を知り合いの中尉に見せて、一晩預けることにしました。それはその中尉が、その黄金虫にいたく興味を持って、貸してほしいと言ったからです。

そんな具合だから、グラントは、友人のぼくもきっとその黄金虫に興味を持つだろうと虫の話をします。が、ぼくは特別虫などに興味はないのです。しかしレグラントは熱を持って説明します。

実物が手元にないので、レグラントは仕方なく紙にその虫の絵を描いて、ぼくに手渡します。

ぼくは見ますが、虫ではなく髑髏が描かれていました。

そのことを言うと、レグラントは驚きました。髑髏など描いた覚えがないからです。

実は、これにはわけがあります。ちょっとしたタイミングで偶然そうなったのです。要するにあぶり出しです。炉のそばにいたことで火の熱によって浮かび上がったのです。紙は羊皮紙といって大変丈夫なものでした。

その羊皮紙は虫を包むために使用したのですが、別に持って行ったわけではなく、虫を捕まえたその場に落ちていたのです。いえ、半分土に埋まっていたのをレグラントが引っ張りだしたものです。

このあたり一帯は、古くから海賊の活動範囲で、有名な海賊キッドが財宝を隠したという伝説がありました。髑髏は海賊のシンボルです。そして、よく見ると羊皮紙に何か数字の記号が書かれていました。山羊の絵もありますが、小山羊のことをキッドと言うそうです。

そういったことから、レグラントは閃きます。これは宝のありかを記したものではないかと。

それから約一か月後に、ジュピターがぼくの家に行きます。それはレグラントが、ジュピターを迎えによこしたのですが、わざわざ迎えによこすというのは、よっぽどのことですから、ぼくは心配して行ってみました。すると、レグラントは元気溌剌で、宝探しをしようと言うのです。

詳しいことを書くと、やぼになりますから書きませんが、謎の記号の解読や、宝を手に入れるまでの描写は、実に見事です。例の黄金虫を、さも意味ありげに使用しています。ミステリーとしても最上級のものです。ポオはやはりすごいですね。

 

今回は以上です。