読書感想(ありふれた祈り・クルーガー)エドガー賞

 今回は、アメリカのミステリー小説(ありふれた祈り)についての読書感想です。批評ではありません。単なるぼくの感想です。

 まず、この本の基礎知識ですが、2014年、早川書房発行・宇佐川晶子翻訳で、作者はウイリアム・ケント・クルーガーというセントポール在住の作家です。

 2013年に発表したこの本によって、アメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)を受賞しました。それだけでなくバリー賞、マカヴィティ賞、アンソニー賞と立て続けに獲得しました。

 つまり多くの批評家や作家が、これは傑作だと認めたわけです。ならば、ミステリーを書いているぼくが読まないわけにはいかないでしょう。で、読んでみた感想は、それだけのことはある、です。

 ただけっこう長い小説で、退屈な部分もありました。が、これはたいていの長編小説がそうなので仕方ありません。とくにぼくは根気がなくて、長編を最後まで読まないことも多いのですが、しかし、この本は最後まで読みました。読ませるものがございました。その読ませるものが何か。それをちょっと書いてみようと思います。

 

 あらすじは、説明するうえで書く必要があるのですが、ぼくのような文才のない人間には、かなり難しい内容です。で、簡単に記すとアメリカのミネソタ州の田舎町で、連続して人が死ぬのですが、殺人と断定できるのは三番目の事件だけです。誰が殺されたのかは言えません。これを言うと犯人は誰か、を答えるのと同じくらい読者の興味は半減するでしょう。

 しかしこの作品は、誰が犯人か、というような薄っぺらいものではありません、言い換えれば、それだけのものであれば、とてもこれだけの賞を獲得することはなかったでしょう。話自体は、わりと平凡なものだからです。

 

 登場人物の一人一人が、じつに鮮やかに描かれていました。構成も無理がありません。

 純文学と言っても通用するようなキメの細かい作品です。

 またミステリー要素も豊富で、終末の謎解きも納得のいくものでした。

 牧師の家族がメーンとなっていることで、さらに作品に深みを加えているようです。

 とくに感心したのは、節ごとの終わり方で、とてもお上手です。

 

 クルーガーという作家の小説を、ぼくは初めて読んだのですが、かなり力量のある作家だと思います。実際、デビュー作の『凍りつく心臓』という作品で、いきなり、アンソニー賞とバリー賞を獲得しています。

 

 因みにエドガー賞は、アメリカのエドガー・アラン・ポーという天才作家を記念して作られたもので、推理作家の垂涎の的となっています。

 日本には、江戸川乱歩賞というのがございますが、これは公募であって、エドガー賞のような賞はとくにありません。会員でなくてもいいという点で言えば直木賞でしょうか。

 

 今回は、以上となります。

群鶏色の街

意味のない詩人

 

群鶏色の街

 

群鶏色とは、どんな色だと聞かないでください。僕も知らないのです。これはぼくの単なる造語です。群青色というのがあって、そこから思い付いただけのものです。

ただイメージはあります。鶏がたくさん群れていれば、さぞかしにぎやかで陽気だろうという。

こういう雰囲気の街が実際にあるだろうか。

にぎやかな街なら、いたるところにあるかもしれませんが、陽気な街となるとあまりないように思います。

殺伐とした都会では話になりません。

で、詩はどこにあるのだ、と聞かないでください。

群鶏色の街──というのが詩です。

一行詩です。俳句よりも短い世界最短の詩ということになります。

もちろん、これだけでは、なんですから、群鶏色の街をイメージしたイラストを次にのせます。

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群鶏色の街

 

読書感想 『帝王』 フォーサイス・作

 最近、『帝王』というタイトルの短編集を読みました。フレデリック・フォーサイスというイギリスの作家です。

 ぼくはこの作家の本を今まで一度も読んだことがありません。代表作の「ジャッカルの日」は映画にもなりましたが、ぼくはその映画も見ていません。

 「帝王」は、短編集で、そしてぼくは短編が好きなので、面白そうなものを二つ三つ読んでみようとこの文庫本を手にしました。

 わざわざ二つ三つと断りを入れたのは、ぼくは傑作短編集でも、全部を読むことはめったになく、その理由は単に根気がないからです。

 で、今回は二つだけ。

 表題作の「帝王」と「アイルランドに蛇はいない」です。

 どちらもタイトルに惹かれました。とくに蛇の方は、素晴らしいタイトルだと感心し、ネットで調べてみると、たしかにアイルランドには蛇がいないようです。

 アイルランドはイギリスのすぐ横にある島国です。

 緯度的にいって、けっこう寒いのでしょう。しかし蛇のいない理由は、寒さではなく、アイルランドは、かつて一度も蛇のいる陸とつながったことがないからです。海底火山の活動によって隆起した島なのです。

 

 ウイキペディアによりますと、 作家のフォーサイスは、イギリスのケント州出身で、ちょっと変わった経歴があります。19歳のときにイギリス空軍に入り、それからロイター通信社の特派員となりました。作家になってからは、007でお馴染みのイギリスの秘密情報部に協力して、スパイ活動も行ったようです。

 

 「アイルランドに蛇はいない」

 

 まずタイトルが秀逸。内容もなかなかのもので、最初から最後まで、隙のまったくない密度の濃い作品でした。

 

 あらすじは、医学生(インド人)がアイルランドの大学で医学を勉強するのですが、生活費を稼ぐためにアルバイトを始めます。建物の解体作業です。その最初の現場が、アイリッシュウイスキーの蒸留工場でした。解体作業は屋根瓦から順々に下っていくのですが、医学生は、ここで危険な作業を現場監督から言いつけられます。三階の壁を適当な大きさに割って外側に蹴れと言うのです。命綱もなく、へたをすれば壁と一緒に落ちてしまいます。その危険性を彼は監督に伝えました。

 現場監督は、最初から肌の色の違うこの医学生を小ばかにしていましたが、指摘されたことで腹を立て、彼に向かって口汚くののしりました。いわゆる差別用語を使ったのです。

 医学生は、由緒ある家柄の出身で、今までそんなことを言われたことがありませんでしたから、心が傷つきました。で彼は興奮し、自分がいかに高貴な生まれかを現場監督に説明したのです。

 しかしそのことが、かえって大男の現場監督を激怒させることになり、医学生はぶん殴られ、吹っ飛び、床に倒れました。それを見ていた他の者は、起きるな、起きたらビッグ・ビリーに殴り殺されると忠告します。

 医学生は屈辱の中、どうすることもできませんでした。

 現場監督が立ち去るとき、医学生はふと頭に勇敢だったご先祖たちの姿が浮かびました。

 ご先祖たちは、彼に向かって一様に「復讐」という言葉を投げかけましたが、これは屈辱を受けたら、その仕返しをする、というのが彼らの掟だったからです。

 医学生が、現場監督に対し復讐を誓ったことは言うまでもありません。 

 

 医学生は自分の部屋に郷土の女神シャクティを祀る祭壇を設け、復讐に対する祈りを捧げます。祈りをしている間、なぜか外は雷雨となり、部屋の壁にかけていたガウンの紐が下に落ちて蛇がとぐろを巻いたような形になりました。それを見て彼は、これは復讐に蛇を使へ、と女神が教唆したと、とらえました。

 インドにはコブラをはじめたくさんの毒蛇がいます。彼はその中で最も小さな毒蛇を復讐の手段にすることを決めました。たしかにキングコブラのような大きなものは、取り扱いが難しいうえに、かえって自分が危険になります。

 で彼はいったんインドに帰り、小さな毒蛇を持って再びアイルランドに戻って来ます。

 ここから、ストーリーは一転二転します。医学生の立場で考えると、いらいらしますが、結末が、とても粋な感じで、思わず、うふふとなります。

 オチの素晴らしい、見事な構成でした。

 

 「帝王」

 

 表題作の「帝王」とは、海の魚であるマカジキのことです。というか、マカジキの中でもとりわけ大きな一匹で、周辺の漁師たちが敬意を表して付けたニックネームでした。

 

 物語は、ロンドンの銀行の支店長であるマーガトロイドとその妻、そして同じ銀行の本店勤務で若手のヒギンズ、この三人がヒースロー空港モーリシャスに向かって出発するところから始まります。

 一週間の休暇ですが、これは銀行がマーガトロイドとヒギンズに対して、日頃の勤務態度及び功績を称えての報酬でした。因みに同じ銀行ですが職場が違うので、マーガトロイドとヒギンズは初対面です。

 行き先のモーリシャスは、かつてイギリスの植民地でした。マダガスカルの東方、インド洋に浮かぶ小島です。

 三人は島のホテルに到着し、ここで一週間滞在します。

 モーリシャスはのどかできれいな島です。が、その一方で退屈です。なぜなら、することが限られているからです。海で泳ぐか釣りをするか、あるいは散歩をするか、もちろんホテルで酒を飲むこともできますが、せっかく南洋の島に来たのですから、ここでしかできないことをしたいものです。

 船釣りはイギリスでもできますが、ここの船釣りは豪快です。ゲーム・フィッシングと呼ばれ、釣れるのは、シマガツオ、カジキ、マグロといった大きなものばかりです。まあシマガツオはそれほど大きくはありませんが、引きはけっこう強いようです。

 マーガトロイドとヒギンズは、あることからこのゲーム・フィッシングに参加することになりました。

 ある朝、二人は船に乗って沖に出ます。

 どちらも釣りの素人なので、最初はシマガツオしか釣れません。しかし、船頭は、そのシマガツオを餌にして、海に投げ込みますと、カジキがかかるようになりました。

 釣りは順番制でマーガトロイドがロッドを握っていたときに巨大なマカジキがかかったのですが、これが帝王と呼ばれる怪物でした。

 

 この釣りは体力勝負で、釣り人はファイテング・チェアに腰かけてやるのですが、それは体を椅子に固定しなければ、あっという間に海に放り出されてしまうからです。それほど強力なパワーを持った魚たちです。

 帝王はマカジキの怪物ですから、大苦闘したことは言うまでもありません。実際この記述が、これでもか、というくらい描かれています。

 日頃大して運動をしていない銀行員のマーガトロイドは体中傷だらけになります。リールを巻いたり緩めたりする駆け引きで、長時間、帝王が弱るのをじっと待ちます。

 結果は書きませんが、最後は以外な結末になります。いえ、定石と言っていいかもしれません。たしかにすんなり帝王を釣り上げて、めでたしめでたし、では、つまりませんから。

 それにしても銀行員って、つらい稼業なのですねえ。

 

 今回はこのへんで失礼いたします。

 

ポオ(黄金虫) 読書感想

今回はポオの「黄金虫」について書きます。この作品はあまりにも有名ですから、わざわざ僕が説明する必要もないのですが、大好きな作品ですから。

かなり昔にわくわくしながら読んだ記憶があります。しかし、内容はすっかり忘れていましたので、今回改めて読み返しました。(集英社文庫のE・A・ポー 丸谷才一訳)やはり面白かったです。本当に面白い小説は天才しか書けないと痛感いたしました。

 

まず話の舞台となっているのが、南カロナイナ州のサリヴァン島です。長さは三マイル。幅は四分の一マイル。矮林で湿地帯です。

 

登場人物は、  

ぼく ─ レグランドの友人

ウィリアム・レグランド ─ サリヴァン島に住む由緒ある家系の男性。

ジュピター ─ 黒人でレグランドの使用人

 ほぼこの三名のみのシンプルな人物構成です。

 

あらすじ

 

主人公のぼくはレグランドに会いにサリヴァン島へ行きます。アポなしの訪問です。レグラントは留守でしたが夕方になって帰宅します。

その日、レグラントは一匹の珍しい黄金虫を見つけ、それを捕まえるために時間を費やしました。

そしてレグラントは、帰宅途中、捕まえたお気に入りの黄金虫を知り合いの中尉に見せて、一晩預けることにしました。それはその中尉が、その黄金虫にいたく興味を持って、貸してほしいと言ったからです。

そんな具合だから、グラントは、友人のぼくもきっとその黄金虫に興味を持つだろうと虫の話をします。が、ぼくは特別虫などに興味はないのです。しかしレグラントは熱を持って説明します。

実物が手元にないので、レグラントは仕方なく紙にその虫の絵を描いて、ぼくに手渡します。

ぼくは見ますが、虫ではなく髑髏が描かれていました。

そのことを言うと、レグラントは驚きました。髑髏など描いた覚えがないからです。

実は、これにはわけがあります。ちょっとしたタイミングで偶然そうなったのです。要するにあぶり出しです。炉のそばにいたことで火の熱によって浮かび上がったのです。紙は羊皮紙といって大変丈夫なものでした。

その羊皮紙は虫を包むために使用したのですが、別に持って行ったわけではなく、虫を捕まえたその場に落ちていたのです。いえ、半分土に埋まっていたのをレグラントが引っ張りだしたものです。

このあたり一帯は、古くから海賊の活動範囲で、有名な海賊キッドが財宝を隠したという伝説がありました。髑髏は海賊のシンボルです。そして、よく見ると羊皮紙に何か数字の記号が書かれていました。山羊の絵もありますが、小山羊のことをキッドと言うそうです。

そういったことから、レグラントは閃きます。これは宝のありかを記したものではないかと。

それから約一か月後に、ジュピターがぼくの家に行きます。それはレグラントが、ジュピターを迎えによこしたのですが、わざわざ迎えによこすというのは、よっぽどのことですから、ぼくは心配して行ってみました。すると、レグラントは元気溌剌で、宝探しをしようと言うのです。

詳しいことを書くと、やぼになりますから書きませんが、謎の記号の解読や、宝を手に入れるまでの描写は、実に見事です。例の黄金虫を、さも意味ありげに使用しています。ミステリーとしても最上級のものです。ポオはやはりすごいですね。

 

今回は以上です。

 

 

読書感想 日本怪奇小説傑作集2

 今回はいつもの書評に戻りまして、タイトルにある日本怪奇傑作集2をいろいろな角度から書いていこうと思います。いろいろな角度と言いましたが、僕は普通の人と視点が違うので、変な角度からその作品を述べるつもりです。

 

 

 日本怪奇小説傑作集2は、創元推理文庫から2005年に発行された本です。16編が収録されています。傑作集ですから、どれもなかなかの出来です。その中で、とくに僕が面白いと思った作品をピックアップして、そのどこが面白かったかを書きます。

 

 1 逗子物語 橘外男

 

 逗子物語は、端的に言えば幽霊話です。中盤までは、よくある幽霊話かなと思っていましたが、ラストにかかる三分の一は、意表を突いた展開で、最後はほろっと来ます。

 幽霊話は根拠の弱い薄っぺらい作品になりやすいのですが、この作品は厚みがあります。

 橘外男は、そんなに有名な作家ではありませんが、ほかの小説も読んでみたいと思う、筆力を感じました。

 

 幻談 幸田露伴

 

 幸田露伴は百年以上前に生まれた作家で、五重塔という小説が有名です。僕は、まだその小説は読んでいませんが、一流作家なのでしょう、幻談を読めば、明らかです。釣りに関する話が、じつに巧みで面白いのです。

 ストーリーは、これといってありません。江戸の川で釣りをするだけのものです。しかし、最後の方が怪談となっていて、まるで落語を聞いているような趣がありました。実際僕は、これに似た落語を昔聞いたように思うのですが、記憶違いでしょうか。名人芸です。

 

 妖翳記  久生十蘭

 

 不二という若い女性が主人公です。が、視点は、その家庭教師の大学生です。

 この不二という女性は、非常に魅力があります。外見ではなく、そのボーイッシュな性格です。生き物を平然と殺してしまいます。それだけでなく、これまでに不二の家庭教師となった大学生が二人も死んでいるのです。しかも死因は不明です。

 その事実を知った私という家庭教師は、不二の犯行とほぼ断定し、自分もいつか不二に殺されるのではないかと懸念します。そして、その疑念を、なぜか自らの命を持って確認しようとするのです。不安と焦り。心の内面をよく描いています。最後は読者に想像をさせる手法をとっています。

 

 その木戸を通って  山本周五郎

 

 時代小説です。平松正四郎という武士の屋敷に、ある日、一人の娘がやってきます。この娘は自分が何者か、またなぜ正四郎の屋敷に来たのか、それさえ分からないのです。が、むげに追い払うのも気の毒と、そのまま正四郎の家で暮らします。

 しかし、婚約者のいる正四郎は困りました。そして、よくある疑いを持たれて、結局、その婚約は破棄されます。が、それと同時に、正四郎は情を持ったその娘と結婚し、子供もできます。何の問題もなく幸せな生活を送ります。

 山本周五郎の得意な人情噺です。

 ところが、悲しいことにその娘は、数年後、なぜか木戸を通って屋敷を去っていくのです。子供と謎を残したまま。

 その謎が解明できれば、読者としてはスカッとできるのですが、でも、なかなかの作品でした。

 

 今回は以上です。

 

32回転 名手 2選

 

 タイトルを見て、なんじゃこれ、と思われた方もいらっしゃることでしょう。

 実際、32回転と書いて、ああ、あのことか、と分かる人は、かなりのバレエ通と言えます。

 32回転は、バレニーナの最高難度の技とされるグラン・フェッテ・アン・トゥールナンを32回連続で回ることです。バレニーナと限定しましたが、男性ダンサーがこの回転技をしているのを僕は見たことがないですから、おそらく女性だけのものでしょう。

 僕はバレエのど素人です。その僕が、技の解説をするのは、大変烏滸がましく、恐縮なのですが、まったく知らない方に説明しないわけにもいきませんので、簡単にご説明しましょう。

 グラン・フェッテ・アン・トゥールナンというのは、片足を軸にした回転技のことで、フェッテ、というのが鞭打つという意味があるらしく、鞭のようにフリーレッグを、ピシッピシッと横に振り上げる独特の旋回をします。

 回転技は他にもあるのですが、このグラン・フェッテが、とくに有名なのは、劇の最高潮で演じられることと、その回転のユニークさにあります。とにかく派手で、華があり、誰が見ても難しい技であると、すぐに分かります。

 またバレエの代名詞、白鳥の湖ドン・キホーテといった人気の高い演目で、演じられることもグラン・フェッテをより有名にしているのでしょう。が、もちろんそれはバレエ好きの人のみであって、一般的にはあまり知られていないのが現状と言っていいでしょう。

 白鳥の湖は悪魔の娘(黒鳥)、ドン・キホーテは村の娘・キトリ、が、この技をやります。クライマックスです。

 このグラン・フェッテを見るのが一番の楽しみで、劇場に行かれる方もおられるのではないかと僕は思います。

 因みにグラン・フェッテ・アン・トゥールナンの32回転が見れるのは、先に書いた白鳥の湖ドン・キホーテと海賊くらいです。他にもあるのでしょうが、僕はよく知りません。なんせど素人ですから。

 劇場で観たことは一度もありません。ユーチューブのみです。

 それで、グラン・フェッテの名手を2名選ぼうとするのですから、いよいよもって厚かましいことですが、ど素人ですから、どんなことを書いてもまったく影響力はありません。気楽なものです。

 それにしてもユーチューブは、とても素敵なサイトです。 

 たくさんのバレエの動画が無料で観れます。グラン・フェッテ・アン・トゥールナンの動画も多いです。そして、そのほとんどが、世界的に有名な一流バレニーナによって行われています。

 したがって皆さん大変お上手で、失敗した動画は一つもありません。しかし、すごく惹き込まれる演技と、いまいち惹き込まれない演技がありました。その差は何だったのか? ここで、それを僕なりに考察してみたいと思います。

 

 バレエはスポーツではありませんが、スポーツ的要素を含んでいます。であれば、スポーツを見て感動するのは何かを考えればいいのです。もちろん贔屓の選手あるいはチームが逆転して勝ったから感動したというのもあるでしょうが、ここでは単純に選手の動きにおいてのみです。

 動きで僕が感動を覚えるのは、まずスピードです。どんな競技でも、のろのろやってスカッとすることはありません。平均以上のスピードがあってこそ、爽快感が出せるのです。

 グラン・フェッテ・アン・トゥールナンは、最高難度の技であることを、バレエ通なら、みんな知っています。ですから、失敗せずに32回回り切っただけでも大したことで、拍手が起こります。

 ではグラン・フェッテにおける失敗とは何か──を書いてみましょう。

 明らかな失敗は、やはりバランスを崩してフリーレッグを床に着けることでしょう。まあ転倒というのが最悪な事態ですが、跳躍ではないので、転倒する方が難しいと言えましょう。そのようなレベルのバレニーナが、主役をさせてもらえることはないです。

 グラン・フェッテは、回転数に決まりがあるのかどうか知りませんが、どれも32回転という長丁場です。

 中盤を過ぎたあたりで軸がぶれ、あっちこっち移動することが多いようです。しかし、さすがに一流のバレニーナは、たとえ体が後ろ向きになったとしても修正します。体幹がすごいですから。

 バランスを崩すのは、たいてい回転をシングルからダブルあるいはトリプルに変化させた時で、ならば、シングルで最後までやればそつなくできたわけです。しかし、僕はむしろ危険を冒して高難度に挑戦したことを評価します。

 かりに足を床に着けても、またすぐに回転を始めれば問題はありません、僕的には。ご愛敬です。しかし、危険を察して、途中から違う技に移行するのはいただけません。

 何とかターンで、舞台をぐるっと回ったりすることです。観客は32回転を観に来ているわけですから、それをせずに違う技でごまかすのは、プロとしてはいかがなものでしょうか。一流のバレニーナでも、このグラン・フェッテを苦手にしている方は、けっこうおられるようです。

 できる人にさせるべきです。

 グラン・フェッテで一番大事なのは、何度でも言いますがスピードです。もちろん正確さも大事ですが、シングルでのろのろ回られても見ていて面白くありません。やっと終わったか、といった感じではダメなのです。まあそれでもよろよろ移動せずに一カ所で回り終えたら、それなりに評価はできます。安定感も大事ですから。

 要するにスピードと正確さが超一流と単なる一流の差だと僕は思います。

 バレエは優雅さが一番ですが、このグラン・フェッテに関しては迫力が大事です。とくに黒鳥の32回転は、凄みが必要です。

 ということで、遅くなりましたが、バレエのど素人の僕が、ユーチューブを観て、その中から選んだグラン・フェッテ・アン・トゥールナンの名手2名を発表したいと思います。

 

 1 ニーナ・アナニアシヴィリ

 彼女はジョージア出身。 アメリカのジョージア州ではありません。昔グルジアと言っていた国です。彼女はロシアのボリショイ・バレエ団で活躍しました。

 彼女のグラン・フェッテはすごい迫力があります。体格も理想的ですが、その回転のスピードと正確さは目を見張ります。彼女は途中、腕や回転数を変化させてもビクともしません。これが超一流の技であると痛感いたしました。

 

 2 ジリアン・マーフィー

 彼女はアメリカのサウスカロライナ州出身で、アメリカン・バレエ・シアターで活躍しました。けっこう身長があるように見えるのですが、体幹がすごいのか重さを感じさせません。重厚感はありますが。

 彼女のグラン・フェッテもスピードがあり正確です。黒鳥の衣装で32回転を演じている姿に、圧倒されそうな凄みを感じました。

 

 以上が、僕がユーチューブで観たグラン・フェッテの最高の使い手2名です。もちろんこの他にも上手な演技者はたくさんいます。ナタリア・オシポワなども素晴らしい回転をしていました。

 

 番外編

 日本の大矢夏奈が、驚くようなグラン・フェッテを魅せてくれました。これはユーチューブではなかったかもしれませんが、あるサイトでその演技を観て僕はたまげたものです。ダブル以上の回転を何度もいれて、まったく軸がぶれないのです。おそらく十センチも移動していなかったでしょう。これほど正確なグラン・フェッテを僕は他に知りません。世界トップクラスです。将来が、大変期待できるバレニーナです。

 

 ということで、今回はこの辺で失礼いたします。

小説の基本中の基本、長さについて

 長さとタイトルに書きましたが、正確には枚数のことです。四百字詰め原稿用紙で、長編は何枚からか、短編は何枚までか、ということです。

 その考察を僕なりにしてみたいと思います。

 こういうことは出版社が一番厳格です。そして出版社の多くが毎年小説を募集していますから、その募集要項を見れば一目瞭然です。

 長編、短編、その規定の枚数が、必ず明記されています。ただし、その枚数は、出版社によってまちまちです。つまり、考察の余地があるわけです。

 ある長編の募集では、250枚以上とあり、また別の募集では400枚以上とあり、かの有名な江戸川乱歩賞は350枚以上となっています。どうも厳密な数値はないようです。

 話によると、長編はその作品一本で本ができる枚数だと言います。ならば200枚でも本にならないことはないでしょうが、しかし、200枚を長編と言うのは、ちょっと無理がありますね。やはり250枚以上はあった方がいいでしょう。

 もっとも、僕の考えでは、小説は長ければいいというものではありません。内容が充実したものが一番です。──料理で言えば、本当に美味しい料理は少しの量で満足できます。しかし、あまり美味しくない料理は量で勝負するしかありません。だから中身がすっからかんなものが多いのです。実際、面白くない小説に限って長ったらしく、しかも千枚を超えると、それを力作と自慢し、あるいは評価されます。忍耐力のない僕は閉口するばかりなのです。まったく退屈な長編ほど害になるものはありません。

 なので、250枚という数字は、長編としては、最少の枚数ですが、僕はこれくらいの長さがちょうどいいと思います。

 

 因みに芥川賞などを扱っている某サイトによりますと、長編を300枚以上、短編を150枚以下と限定しています。中編は300枚以下150枚以上となりますが、僕もこの数値が一番適切ではないかと思います。

 さらに詳しく分けるとしたら、原稿用紙40枚以下を短めの短編、40枚以上100枚までが普通の短編。そして100枚以上150枚以下が、ちょっと長めの短編ということになります。

 これでいくと、先ほどの250枚は中編ということになりますが、まあ細かいことは言わないことにしましょう。本になればいいだけのことです。

 長編短編の枚数は、以上でOKだと思いますが、では掌編、ショートショート及び超短編はどうなのだ、というご意見があるかと思います。で、次に簡単に僕の見解を述べます。

 掌編とショートショートは、ほとんど同じ長さだと僕は思います。400字詰め原稿用紙で、15枚以内。──20枚程度でもいいのですが、しかし20枚だと立派な短編になります。では15枚以下は立派ではないのか、と言われれば、あくまでも枚数の問題であって、傑作に枚数は関係ありません。

 ショートショートは、その響きから、ちょっとSFっぽく感じますが、それは星新一というショートショートに特化した作家の作風に影響されているからでしょう。一世を風靡しました。星新一については、また別の機会で記述したいと思います。特筆すべき作家の一人ですから。

 そして掌編ですが、掌編は何となく文学っぽいイメージが僕にはあります。たとえば、梶井基次郎の「檸檬」をショートショートと言う人はあまりいません。言っても間違いではないですが、やはり掌編と言った方がピンときます。小品でもいいですが。

 掌にのるほどの小さな作品、なかなか日本語って、素敵ですね。

 問題は超短編です。いったいいつ頃からそう言われるようになったのか僕は知りませんが、面白い呼び方だと思います。短編を超えるという意味なのでしょうが、といって長編ではありません。逆にすごく短い短編で、原稿用紙一枚か二枚で終わる作品のことです。ですから、俳句のようなものも超短編と言っていいでしょう。手軽に誰でも書けて、スマホで読むには好都合なジャンルと言えましょう。

 今回は以上となります。